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Browsing Tag »経済学«

ハイエク 知識社会の自由主義(2) →  1月 11, 2010 0

■池田信夫のハイエク「知識社会の自由主義」 つづき。 ==社会主義との闘い== 知識人が左翼的なのは、世界的な傾向である。 彼らがある程度の合理的な知識をもち、自然科学によって自然が操作可能になったように、社会科学によって社会を合理的に操作できると思いがちなところからくる、バイアスだと推測される。 イギリスの科学誌「ネイチャー」は、「社会を科学的に組織する計画」を繰り返し特集した。多くの科学者が「資本主義の無政府性」を批判し、「国民を科学的に管理する」システムを提案した。 ミーゼスが計画経済の欠陥を論文にて明らかにした。 その主張は以下のようなものだ。 重要と供給の相互作用によって商品の価値が決まる。 ある企業が利益を上げているということは、その企業が効率的に生産しているこをと示す。 その場合、ほかの企業が参入して商品の供給が増え、価格が下がる。 このように価格と通じて消費者の評価が伝えられることによって、企業は正しい価格を計算することなしに知ることができる。 このメカニズムが機能するためには、財産権によって商品とその所有者が1対1に対応していることが不可欠なのだ。 財産権を否定する社会主義経済において、中央当局の計画で正しい資源配分を決めることは不可能である。 オスカー・ランゲは「社会主義の経済理論」を発表して反論した。 中央当局は価格を提示して各企業の需要と供給を集計し、それが一致するまで価格を動かせばよい。財産権がなくても、こうした「分権的社会主義」が可能であることは、新古典派経済学によっても証明されている。 (ただし、戦争のように目的関数がはっきり決まっていて変化しないときにのみ、有効だということが判明した。経済全体の目的は、このように一律になることはない。) ポパーは、当時の分析哲学の主流であった「論理実証主義」を批判した。いかの多くの実験で正当性を検証しても、次の1回でそれが否定される可能性を排除できない、と。経験的事実から理論を「帰納」する手続きというのはありえない、ということである。 そしてポパーは、科学と非科学をわける基準として「反証可能性」を提唱した。 マイケル・ポラニーは、ポパーの追求するような「客観的知識」は人間の知的活動の氷山の一角であり、実際の科学は科学者の習慣や常識などの言葉にならない暗黙の個人的知識に支えられている、と主張した。 当時はこれを実証するデータがなかったのだが、最近の脳科学では、こうした感覚をつかさどる「辺縁系」と呼ばれる古い脳が、行動の基礎にあることが明らかにされている。 ハイエクは、新古典派の中心的なモデルである「完全競争」の前提として、次の3つの条件を提示する。 1.買い手や売り手が価格に影響を及ぼさない。 2.市場への参入が自由である。 3.すべての市場参加者が完全な知識をそなえている。 ハイエクが「計画主義」と呼んで批判したのは、社会主義と全体主義に共通する「社会を特定の目的のために動かす」という思想である。 ハイエクは制度設計を否定したわけではなく、むしろ晩年には法制度や議会制度などのルール設計について提言を行っていた。 つづく。。。ながーー。

ハイエク 知識社会の自由主義:池田 信夫 →  1月 4, 2010 0

賢いやつの「●●を盗もう」のコーナー。 おれみたいにメモリが著しく少ないやつは(けどCPUはええでっ)、 こういう感じで備忘録を付けるんがええんやろな。 と思い、試してみよう。 と思う。 かんたんに言うと読書:備忘録のコーナー。 サイアク、1回で終わる。 かも。 ■第1回は、池田信夫のハイエク「知識社会の自由主義」 PHP新書 2008年9月 著書:池田信夫 1953年京都府生まれ。1978年東京大学経済学部を卒業後、NHKに入社。 2001年経済産業研究所上席研究員を経て、現在は上武大学大学院経営管理研究科教授。 ハイエクとは? ■本書の内容 ==帝国末期のウイーン== 社会主義、ケインズ主義と対決したハイエクの思想は、 現在の脳科学、法体系、知的財産権、インターネットを理解する鍵を 私たちに与えてくれる、とされている。 ハイエクの思想は、大陸の観念論と英米の経験論の混合物である。 近代の合理主義を攻撃し、人間の「無知」をすべての理論の前提に置く、 一種の不可知論を持つ。 無神論者で「一神教の不寛容には強い敵意を感じる」と語っている。 人間の行動を認識論的なレベルで把握するところから出発するハイエクの理論は、カント以来のドイツ観念論の延長線上にある。歴史を自由の拡大する過程、ととらえる彼の進化論的な発想は、ヘーゲルやマルクスに近く、英米の分析的な経済学とは異質であった。 経済学史では「オーストリア学派」に分類される。 「価値が生産費(労働時間)で決まる」とする古典派経済学を批判し、 それが「消費者の必要で決まる」という考え方を提唱する。 現在の経済学のコアである「新古典派理論」は、19世紀後半にイギリスのウイリアム・ジェヴォンズ、フランスのレオン・ワルラス、オーストリアのメンガーによって創設された「限界革命」にはじまる。これは商品の価値が「人々がそれによって得る効用に求める」という理論である。 もっとも現在の「新古典派理論」に近いのはワルラスである。彼は市場を需要と供給の均衡する方程式で表し、経済全体を「一般均衡」の連立方程式で記述できる、と考えた。 ここでの主要なテーマは集計的な需要であり、個人の効用は補助的な概念にとどまっている。 ジェヴォンズの理論は、経済学すべてを「効用」によって説明しようとしる、イギリス功利主義の伝統を数学的に表現したもので、スタイルとしては現在の経済学に近い。 メンガーは、商品の価値を決めるのは、「消費者の必要だ」と論じた。 「限界」概念を明示的には論じていないが、商品の価値は「それを失ったときの有用性と等しく決まる」と述べる。このような消費品一単位を消費することによって得られる有用性が、のちに「限界効用」と呼ばれる。 さらにメンガーは、計画経済に反するように、以下のような理論を持った。 「有機的な」な起源をもつ社会現象は国民の個人的努力、すなわち個人的利益を追求する努力の意図されないで合成された結果として現れる、という特長を持っている。 ==ハイエク対ケインズ== 大恐慌が市場メカニズムへの信頼を失わせた第一次世界大戦後、 「自由放任の終焉」を宣告したケインズが大きな支持を受けた。 世界は、私的利害と社会的利害がつねに一致するように天井から統治されているわけではない。啓発された利己心が、つねに社会全体の利益になるようにはたらくというのは、経済学原理からの正確な演繹ではない、と言った。 つまり、市場の「無政府性」を政府がコントロールすべき、という社会主義の影響がみられる発言である。(ただし本人は社会主義を否定している) ケインズが「自由放任」を批判したレトリックは巧みであった。 実際には当時のイギリスで、政府が何もするなという意味での自由放任を主張した経済学者はいなかったのだが、「古典派経済学」がそのようなナンセンスは主張だと決めつけることによって、一定の政府の介入は必要だという(一般論としては正しい)ケインズの主張が、強い説得力をもつことになった。 ケインズは『貨幣論』で、不況の原因は過少消費なので、金利を引き上げれば貯蓄が減り消費が増えるので、不況から脱却できると主張した。 対してハイエクは、不況の原因は過少消費ではなく、金融政策でそれを是正することはできないと批判した。実物市場を長期的に均衡させるような水準の「自然利子率」を下回った金利を設定しても、それは長期的に維持できないので金融市場を不安定にし、かえって不況を悪化させる、という理屈だった。 ケインズの説を後押しするように、公共事業の効果をリチャード・カーンが「乗数効果」の理論にて発表した。 それは、たとえば政府が公共事業に1億ポンド支出し、それを受け取った労働者が6割を消費に回すと、さらに6000万ポンドが市場に流れ、それを売った商店主がその売上の6割をまた商品に回すと、3600万ポンドが市場に流れる、というように最終的には2.5億ポンドの有効需要が創出される、というものだ。 財政赤字についても、景気対策によって国民所得が増えれば税収が増え、結果的には財政赤字も解消できる、とされた。 ケインズは、『一般理論』にて金利の引き下げは効果がないと主張した。 『貨幣論』では、その方法にて不況が克服される、としたにも関わらず。 その説は以下のようなものだ。 金利を引き下げても、金利生活者がリスクを恐れて現金を保有する「流動性選好」があるため、長期金利は下がらない。 したがって政府が公共事業などによって有効需要を創出する必要がある。 のちにケインズは師マーシャルの追悼文で、経済学の役割は、そのときの経済情勢に合わせた政策をパンフレットで提言すること、とした。 つまりこの時「政府の介入が必要だ」という結論を最初に決め、それに合わせて理論を組み立てたのである。 1970年代になると、経済を個人に分解し、その「合理的期待」にもとづく行動の集計として経済成長や景気循環を定式化する「新しい古典派」が登場した。 [...]

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