梶原家

4月 21st, 2008 @ 梶原 信次

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940399b1.jpg1つのことをくどく何回も言います。

おれ、新人賞を受賞しました。

人展というやつ公募展で。





受賞の後、母から手紙をもらいました。

「がんばって子育てをしていたことを誇りに思わせてくれて、ありがとう」と。





もちろん、俺は絵を描くことが好きだ。

小さい頃から好きだった。

でも、それだけが理由ではない。

今、絵を描いていることの。





うちの大視が言っていた。

「芸大や美大に行く子は、子供のころに落書きをしても

怒られなかった子たちである」と。





俺は物心ついた時から、仮面ライダーなどを

描きまくっていた。

もちろん、怒られなかった。





怒られなかったどころか、俺の絵が好きなことを

見かねた母に、幼稚園入園前から、

美術館に連れていかれていた。





小学校入学後は、母がわざわざ

小学校の先生に頭を下げて、

俺に絵画を習わせた。





毎週日曜には、父が車で絵画教室まで

送り迎えをしてくれた。

絵画教室と言っても、実は書道教室であり、

その書道の先生が、俺にだけ「絵画」を教えてくれていたのだ。





書道を習いに来ていた子たちは、

不思議そうな眼で、俺を見ていた。

人見知りだった俺は、まったく話しかけることはなかった。

でも、絵を描ける、絵がうまくなる楽しみがあったので、

そんなことはまったく苦にはならなかった。





小学校の夏休み明け、

おれは毎回、必ず表彰をされていた。

子供の絵画コンクールで、いつも入賞をしていたから。





そんな俺だったが、中学入学後は強がったり、悪ぶったりして

どんどんと絵を描くことから離れていった。





そう。





俺は絵画については、まれに見る「英才教育」を受けてきた。

ただし俺は、その英才教育をまったく生かすことなく

現在に至っていた。





2年ほど前、ふと母が言った。

「今度、絵を描いてプレゼントしてや。」





俺は絵を描ける自信はなくなっていた。



そんなとき、会社の大視が習い事について、

迷っていた。「Web系のスクールに行くか、絵画に行くか」





俺は大視に便乗して、おれも習いにいくことに決めた。





普通、美大を出ている人間は、デッサンができる。

でも俺は、できなかった。

俺の学科の入試は、デッサンはなく、色鉛筆と色彩構成だけだったから。





基礎から始めた。





1年くらい経って、初めてデッサンではなく、着色も含めた絵を描いた。

その絵は今、俺の神戸の実家の玄関に飾られている。

母へプレゼントしたのだ。





なぜ母が、おれに「絵を描いてくれ」と、突然言ったのか?





俺は色々と考えた。





結果、俺は俺が持つすぐれた能力を、最大限に世に出していくことに決めた。

それの最たるものが、絵を描くことなのだ。





父は言った。

「お前は小さい頃、本当に負けず嫌いで努力家だった。今は…。」と。





おれが持つすぐれた能力は、「努力ができること」もそうなのかもしれない。





俺の能力が世に認められれば、うちの両親が世に認められたことにもなる。

俺は、真面目に家族を守り育ててきた両親のメンツも責任として背負っているのだ。





昨年に祖母の葬式で、神戸へ帰省した際、

兄が俺に教えてくれた。

「お前の上には、生まれるはずやった子がいたんやぞ。」

「その子が流産してしまったから、

 母さんはお前の身体のことをすごく心配するんや。

 自分のせいで、身体が弱く生まれたんちゃうか?って。」





そして兄は、こういうことも教えてくれた。



「うちの家紋、みたことあるやろ?おばあちゃんちで。

あの並び矢の家紋はな、梶原景時の直系にしか使うことが許されてないんや。」



梶原景時とは、教養があり和歌を好んだ、鎌倉時代初期のナンバーワン御家人である。



うちの家族は、その景時の直系だと言う。間違いないと。

知的で研究家のうちの兄の言うことである。

間違いないのだろう。





俺は誇り高き梶原家、

誇り高き父母の、次男坊として、

自分の力を世に問いたい。





俺の力が認められるということは、俺の父母が認められるということである。





それが、俺が絵を描く最大の理由。





次は、昭和会展(=website)を狙う。

若手作家の登竜門として名高い公募展。撃破スベシ。